2009年8月31日月曜日
夏休みのおわりに・・・
今日で夏休みも終わり。夏を惜しんで、今シーズン最後のスイカ。今日の美和町の祈祷会、神学校をおえて、スーパーを覗くと安く売ってたので、思わず買ってしまいました。
昨日は、我が家の天井にお客様が。夏の饗宴。
明日から心新たに、しばし夏を楽しもう!
この日は、主が造られた。
われらはこの日を楽しもう。
日本もなかなか・・・
ここにも助けが・・・
朝日新聞2002年6月7日・夕刊に興味ある記事を見つけたので紹介します。「外交官杉原千畝氏が発給した『命のビザ』を支えたもう一つの歴史」として、「日本を経由して米国に逃げるユダヤ難民は、1938(昭和13)年ごろから増え、41年ごろまで続いた。外国人客の誘致、あっせんを目的とした社団法人『ジャパン・ツーリスト・ビューロー』(現JTB)が手配した難民は、少なくとも1万1千人に上るという。」シベリア鉄道を経由してウラジオストックから敦賀港へ、また旧満州の満州里を通り、大連から上海へ。米国のユダヤ人協会から資金を預り、この働きを進めたそうだ。このことは、「観光文化」(旅行会社機関紙)“20世紀の旅人”という企画の中で明らかにされたという。
2009年8月29日土曜日
日本のシンドラー(2)
千畝氏は、その後領事官としてヨーロッパ各地を歴任。終戦後ソ連で1年間収容所生活を送り、1947年帰国、外務省を依願退職。-やめさせられたとの説もあるが、政府の公式見解は、「ビザ発給の件での処分退職の記録は存在しない」そうだ。1968年夏、ビザ発給をうけた元ユダヤ人難民との再会。1969年イスラエル宗教大臣より勲章をうける。1985年1月18日「ヤド・バシェル賞」(諸国民の中の正義の人の意)をうけ、11月にはエルサレムの丘での記念植樹祭と顕彰碑の除幕式が執り行われ、1986年7月31日死去された。「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれないが、人間としては当然のこと。私は彼らを見殺しにすることはできなかった。」「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く。」の言葉が紹介されている。
人に従うより、神に従うべきです。
使途の働き5:29
2009年8月28日金曜日
日本のシンドラー(1)
杉原千畝元リトアニア領事代理は、1940年8月、迫害から逃れるユダヤ人に対して自分の判断で日本通過ビザを発給し約6000人のユダヤ人を救った外交官として知られている。1900年1月1日岐阜県加茂郡八百津町で生まれ、父親の仕事の関係で旧制名古屋第5中学校(現瑞陵高校)を卒業。ロシア語を学び、モスクワ大使館で働くのが希望だったが、ソ連側に入国拒否され、1939年、リトアニア日本領事代理として幸子夫人と赴任。いつのころか、夫人もともにロシア正教会の洗礼を受けている。退官後、ニコライ学院教授として教鞭をとった時期もある。1940年7月、政府に要件を満たしてないものにも緊急のビザ発給の許可を求めたが拒否され、日本領事館の閉鎖通告を受けるが、25日には独断で無制限の日本通過ビザ発給を決行。再三の退去命令を受けながらも、約1ヶ月間ビザを書き続けた。ビザに貼る印紙が無くなると領事特別許可書を発行。列車でベルリンへ発車寸前まで続いたと言う。この様子はビデオ『ビザと美徳』に描かれている。
参考 ウィキペディア
『ビザと美徳』
HP「人道の港敦賀ムゼウム」等
昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に
申命記33:27
2009年8月17日月曜日
“つばめ”が・・・20匹ほど
2009年8月11日火曜日
雲の間にある虹・・・それとも彩雲
2009年8月9日日曜日
どうしましょう
2009年8月1日土曜日
キャンプに行ってきました!
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