2009年12月30日水曜日
2009年12月19日土曜日
祈りの答え・・?!
クリスチャンになったら「春の海 ひねもすのたり のたりかな」で毎日平安に過ごせると思っていましたが、むしろ逆で問題が次から次と湧いてきます。すべてのことを支配している神さまが、すべてのことを感謝しなさいと言っておられるので、感謝をして、そして祈ります。15日もいろいろとお祈りをしてから、用事を済ませて、ふと空を見ると、彩雲が出てました。うれしくなります。神様がいつもそばにいてくださる。祈りを聞いてくださる。悩み、落ち込んでいると、励ましてくださる。
わたしは近くにいれば、神なのか。
-主の御告げ。-
遠くにいれば、神ではないのか。
人が隠れた所に身を隠したら、
わたしは彼を見ることができないのか。
-主の御告げ。-
天にも地にも、わたしは満ちているではないか。
ー主の御告げ。-
エレミヤ23:23~24
2009年11月30日月曜日
ワクワクしてます
2009年11月16日月曜日
孤児院報告会に行って
2009年11月2日月曜日
10月31日 パート2
太陽の周りに、きれいに完全な丸い形の虹をみました。むかしむかし、私は、何も知らないで過ぎるよりはできるだけ何でも知った上で、判断していけばいいと思ってました。でも、クリスチャンになってから、知るべきことを知らず、知らないでいいことを追求して、影響されて違う方向を歩いたり、傷ついてきたことに気づかされて悔い改め、これは、私の祈りになりました。そして、その日・10月31日の午後、初めて太陽の周りに完全な虹をみたのです。本が好きで、それまでいろいろな本を読み漁ってましたが、全然興味をもてなくなっていました。とにかく聖書が読みたくて、神様のことが知りたくて、知りたくて、聖書に没頭していきました。
なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、
すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らない
ことに決心したからです。
Ⅱコリント2:2
2009年11月1日日曜日
10月31日
実家から父の法事をするから帰ってくるようにと連絡がきました。久しぶりに兄姉の顔を見たいと思いましたが帰るのをやめました。日曜日は礼拝の日。皆が救われるように祈ってきました。父も母も天国です。天で全員そろうことを信じ、神様に期待します。父は浄土真宗大谷派の第15代住職でした。大好きな父でした。その父が病気になって、体が思うように動かなくなった時、死にたいと言ったのです。私にはショックでした。あれほど一生懸命に寺のため、人のため、家族のために働いて、人は救えても自分は救われないのか、今まで父のやってきたことは何だったのだろうかと思うようになりました。それとともに私も苦しさの中でもがいている時クリスチャンと出会い、教会に導かれました。聖書の神様、イエス・キリストと出会い私は救われました。心が虚しさを感じた時、経本を読んだり、仏教説話集を読んで心を満たそうとしていましたが、満たされることはありませんでした。今は、祈ったり、聖書を読んだり、賛美をしたり、教会に行ったりすることで喜びがきます。心が満たされます。嫌な問題から逃げずにすみます。父が苦しまなかったら、私は仏教から目が、心が離れなかったでしょう。神様は哀れみ深いお方です。17年前の10月31日、父を天国に導いてくださいました。
主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、
主よ、だれが御前に立ちえましょう。
しかし、あなたが赦してくださるからこそ
あなたは人に恐れられます。
詩篇130:3,4
2009年10月30日金曜日
この年の暮れに
私たちの群れは11月が新年となります。ですから、いまは1年の締めくくりの時、年の暮れ・・・感謝と悔い改めのときです。が、なんと忘れやすいものか。情けない。ひとつひとつ思い起こしながら、感謝しています。悔い改めるほうが多いいのですが。先週、突然困難が降りかかってきました。試練のときこそ感謝します。そして喜びます。この試練をとおして恵みと祝福を見ることができるからです。感謝して、外に出て、ふと空を見ると彩雲がでてました。神様がいてくださる。希望がわいてきます。聖書を読み始めたころ、神様って非常識なお方だなーと強く思ったことがありましたが。まさしく、私たちの思いをはるかに超えて祝福と恵みを注いでくださる方。神様、感謝します。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って
召された人々のためには、神がすべてのことを働か
せて益としてくださることを、私たちは知っています。
ローマ8:28
2009年10月28日水曜日
すべてが益となって・・・
興味深い本を見つけました。「武功夜話」-戦国時代・織田信長、豊臣秀吉が活躍した時代を中心とした前野家の覚え書で、第16代孫四郎かつかねによって編集されたもの。かねかつは吉田と苗字をかえ百姓となり、庄屋職として現代に至っているそうだ。この前野家は江戸時代初期まで切支丹宗門であり、編纂を手伝ったかつかねの娘千代女は切支丹として殉教している。この書は門外不出として土蔵奥深くにしまいこまれていたのが、50年前の伊勢湾台風の時、土蔵の壁が崩れたためみつかったという。当時のことが詳細に記録され、遠藤周作氏はこれをもとに何冊かの時代物を書いているという。神の前にひとつひとつが覚えられていて、ちょうど良い時にあきらかにしてくださる。
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、
人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行われる
みわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
伝道者の書3:11
実りの秋
2009年10月22日木曜日
J-ゴスペルもよろしく
2009年10月12日月曜日
2009年10月7日水曜日
主の恵みはとこしえまで
白洲次郎というTV番組を見ました。このような人がいたのですね。知りませんでした。ドラマを見ていると、なぜか、シンドラーをふと思い出しました。俳優さんのイメージが似ていたからでしょうか?そのなかで、「Jesus lovos me」(主われを愛す)の賛美歌がバックミュージックとして流れてました。祖父とお母さんがクリスチャンだったそうです。祈られて育ったのですね。「貴方は病弱でいつ死んでもおかしくない時がよくあったのです。その時私はどれほど神様に祈ったことでしょう。貴方が奇跡的に生きながらえたのは、神様があなたにしかできない使命をお与えになったのです。」というお母さんの言葉のとおり、日本の敗戦時にGHQと真正面から戦って、アメリカの隷属国にならずにすみました。日本は神様に愛されているのですね。
わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、
あなたの知らない、理解を超えた大いなる事を
あなたに告げよう。
エレミヤ33:3
2009年9月28日月曜日
2009年9月20日日曜日
2009年9月4日金曜日
2009年8月31日月曜日
夏休みのおわりに・・・
日本もなかなか・・・
ここにも助けが・・・
朝日新聞2002年6月7日・夕刊に興味ある記事を見つけたので紹介します。「外交官杉原千畝氏が発給した『命のビザ』を支えたもう一つの歴史」として、「日本を経由して米国に逃げるユダヤ難民は、1938(昭和13)年ごろから増え、41年ごろまで続いた。外国人客の誘致、あっせんを目的とした社団法人『ジャパン・ツーリスト・ビューロー』(現JTB)が手配した難民は、少なくとも1万1千人に上るという。」シベリア鉄道を経由してウラジオストックから敦賀港へ、また旧満州の満州里を通り、大連から上海へ。米国のユダヤ人協会から資金を預り、この働きを進めたそうだ。このことは、「観光文化」(旅行会社機関紙)“20世紀の旅人”という企画の中で明らかにされたという。
2009年8月29日土曜日
日本のシンドラー(2)
千畝氏は、その後領事官としてヨーロッパ各地を歴任。終戦後ソ連で1年間収容所生活を送り、1947年帰国、外務省を依願退職。-やめさせられたとの説もあるが、政府の公式見解は、「ビザ発給の件での処分退職の記録は存在しない」そうだ。1968年夏、ビザ発給をうけた元ユダヤ人難民との再会。1969年イスラエル宗教大臣より勲章をうける。1985年1月18日「ヤド・バシェル賞」(諸国民の中の正義の人の意)をうけ、11月にはエルサレムの丘での記念植樹祭と顕彰碑の除幕式が執り行われ、1986年7月31日死去された。「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれないが、人間としては当然のこと。私は彼らを見殺しにすることはできなかった。」「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く。」の言葉が紹介されている。
人に従うより、神に従うべきです。
使途の働き5:29
2009年8月28日金曜日
日本のシンドラー(1)
杉原千畝元リトアニア領事代理は、1940年8月、迫害から逃れるユダヤ人に対して自分の判断で日本通過ビザを発給し約6000人のユダヤ人を救った外交官として知られている。1900年1月1日岐阜県加茂郡八百津町で生まれ、父親の仕事の関係で旧制名古屋第5中学校(現瑞陵高校)を卒業。ロシア語を学び、モスクワ大使館で働くのが希望だったが、ソ連側に入国拒否され、1939年、リトアニア日本領事代理として幸子夫人と赴任。いつのころか、夫人もともにロシア正教会の洗礼を受けている。退官後、ニコライ学院教授として教鞭をとった時期もある。1940年7月、政府に要件を満たしてないものにも緊急のビザ発給の許可を求めたが拒否され、日本領事館の閉鎖通告を受けるが、25日には独断で無制限の日本通過ビザ発給を決行。再三の退去命令を受けながらも、約1ヶ月間ビザを書き続けた。ビザに貼る印紙が無くなると領事特別許可書を発行。列車でベルリンへ発車寸前まで続いたと言う。この様子はビデオ『ビザと美徳』に描かれている。
参考 ウィキペディア
『ビザと美徳』
HP「人道の港敦賀ムゼウム」等
昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に
申命記33:27
2009年8月17日月曜日
“つばめ”が・・・20匹ほど
2009年8月11日火曜日
雲の間にある虹・・・それとも彩雲
2009年8月9日日曜日
どうしましょう
2009年8月1日土曜日
キャンプに行ってきました!
2009年7月22日水曜日
音吉(3)
音吉は、英国籍をとり、ジョン・マシュー・オトソンと名を変え、シンガポールの女性と結婚し3人の子供がいた。1864年、シンガポールにおいて英国への帰化が認められた。記録によると、3年後50歳で亡くなり、シンガポールのキリスト教徒の墓地に葬られたという。音吉の人生に宣教師を介してのキリスト教・神との出会いがあった。最古の和訳聖書に関わったことで埋もれていた歴史から掘り起こされ、三浦綾子さんの『海嶺』の小説がうまれたという。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々の
ためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、
私たちは知っています。
ローマ8:28
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々の
ためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、
私たちは知っています。
ローマ8:28
2009年7月19日日曜日
音吉(2)
音吉たち3人は、米国ワシントン州に漂着し先住民族マカ族に保護された後、英国のハドソン湾会社に引き取られた。ロンドンを経由してマカオで滞在中、宣教師カール・ギュツラフに日本語を教えると共に聖書の和訳に協力した。1849年イギリス海軍の軍艦マリナー号で浦賀へ通訳、林阿多(リン・アトウ、中国人)として来た。1854年にも日英和親条約の締結のため英国艦隊の通訳として長崎にきた。日本最初の英語教師ラナルド・マクドナルドが長崎にやってきたのは音吉たちの影響があったと言う。1862年にはシンガポールで、江戸幕府の外交使節の一員としての福沢諭吉と出会っている。
2009年7月16日木曜日
くちなしの花が咲いてました
2009年7月12日日曜日
音吉(1)
音吉は、1832年(13歳)に見習い船員として宝順丸に乗り込み江戸に向かう途中遭難した。1年2ヶ月漂流後アメリカ西海岸に漂着した。乗組員14人のうち生き残ったのは、音吉、久吉、岩吉の3人のみであった。マカ族に保護された後イギリスの会社に引き取られ、マカオで日本に帰る機会を待ってる間に、宣教師ギュツラフの聖書和訳に協力した。“モリソン号”で浦賀沖、鹿児島まで来るが異国船打払令により上陸できなかった。『海嶺』のクライマックス・感動のシーンでもある。この後音吉はギュツラフの元で通訳としての訓練を受け、上海、シンガポールで貿易の仕事をしながら漂流民を助けたと言う。
『音吉の足跡を追って』 美浜町企画開発課発行
「産経新聞」 日本人の足跡 にっぽん音吉①~⑤
『日本に帰れなかった男たち』
2009年7月6日月曜日
2009年7月4日土曜日
2009年7月3日金曜日
もしかしたら・・・
2009年6月30日火曜日
もっと祈らねば
浦上のキリシタンのなかに、高木仙右衛門と言う人がいた。この人は誰が見ても一番最初に信仰を捨てるようにみえたという。しかし反対に皆が棄教したときでも、仙右衛門は最後まで守り通したと言う。自分の弱さを知り、毎週断食し祈ったと言う。神様を信頼して、祈っていくとき助けられる。困難を乗り越える力を与えられる。世界的な経済不況、異常気象、戦争不安等の中でまっすぐに生きていけるように、クリスチャンとしての使命が果たせるように、先人の信仰を見習って・・・・・。
『まんが日本キリスト教史』上・下巻 まどかまこ著
これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に
入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上で
は旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
へブル11:13
『まんが日本キリスト教史』上・下巻 まどかまこ著
これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に
入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上で
は旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
へブル11:13
いつか必ず、・・・
同じような弾圧の中を通りながらも、長崎で信仰が継承されてきたのはなぜだろうかと考えてみる。指導者がすべて捕らえられ、殉教して行くなかで、一村すべてがキリシタンでなければ信仰を守り通すことが難しく、武士を捨てて農民となったキリシタンとともに、「帳方、水方、聞き役」という地下組織力により信仰が守られていったという。また、宣教師の弟子となっていたバスチャンの教会暦と預言「7代経てばコンヘソーロが大きな黒船でやって来て毎週でも告白することができるようになる・・そしてどこででも自由に賛美を歌って歩けるようになる・・・」は励ましと希望となり、預言の成就を信じて語り続けられた。鎖国が解かれ、1858年通商条約が結ばれ、フランス人宣教師が大浦天主堂を建てたことで浦上キリシタンと出会いがあった。
『日本キリシタン迫害史』 津山千恵著
『まんが日本キリスト教史』上・下巻 まどかまこ著
2009年6月27日土曜日
長崎のキリシタン
キリシタンの弾圧は1873年2月24日(明治6年)高札が撤去されるまで続いた。尾張では1629年に初めて一人の殉教者がでたが、1670年以降はでてないという。根絶やしにされたのか、それとも隠れキリシタンとなって地下に潜ったのだろうか。長崎・浦上村では浦上四番崩れといわれる一村総流罪がおきた。津和野、金沢など、そして名古屋には375人が送られたと言う。こういったキリスト教弾圧に対して英、米、仏、独の反発から禁教令を掲げた高札が撤去されたと言う。
『日本キリシタン迫害史』津山千恵著
『美和町史 人物一』
民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。
あなたがたの心を神の御前に注ぎだせ。
神は、われらの避け所である。 詩篇62:8
2009年6月25日木曜日
祝福がありますように!
2009年6月23日火曜日
もっと信じなければ
梅雨に入る直前に玉葱の収穫をしました。遅く植えたので取り入れも遅くなりました。空き地を少しずつ耕やして、現在3列になりました。去年はじめて、スイカを植えました。(一度つくってみたかった)でも、草取りがたいへんで間に合わず、草に埋もれてしまい、もうだめーと、思っていたらなんと、こつぶ(?)が3個なってました。もう少し早めに気づいていたらおいしく食べることができたようでした。スイカの様子を見もしないであきらめてしまってました。神様ごめんなさい。せっかく楽しませようとして下さったのに、無駄にしてしまいました。ささやかな労苦も無駄になってしまいました。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、
神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、
信じなければならないのです。
へブル11:6
2009年6月17日水曜日
2009年6月13日土曜日
コンスタンチノ(7)
2009年6月11日木曜日
コンスタンチノ(6)
2009年6月6日土曜日
叫び!
ふと、思い出したことがあります。主と出会った頃のことです。私の前に大きな問題が起きた時、苦しくて苦しくて呻いてました。自分を責めても、人を責めても、我慢をしても何の解決もなく、毎日暗闇がどんどん深くなって絶望の日が続いてました。そんなある日、“神様、助けて”と心から叫んでいました。しばらくしてクリスチャンに教会に誘われ、イエス様を知り、救われました。状況は何も変わらず。でもなぜか、うれしいのです。心に喜びがあふれてくるのです。そうして、周りの人達を教会に誘ってました。神様は私の叫びを聞いて助けてくださったのですね。
「主の御名を呼び求めるものは、だれでも救われる。」のです。
ローマ10:13
「主の御名を呼び求めるものは、だれでも救われる。」のです。
ローマ10:13
2009年6月2日火曜日
私の助けは、天地を造られた主から来る。
嫌なことや失敗が続くと、自分を責め、すっかり落ち込んでしまいます。悪いことばかりに目がいってしまいます。不安と恐れが代わる代わる襲ってきます。なぜ、どうしてと空回りばかり。“誰か助けて”ーすると神様は“私を感謝しましたか”といわれます。そうです感謝と賛美です。神様をほめたたえます。そして失敗を感謝します。できない自分を、失敗した自分をそのまま感謝し続けていると、失敗の原因が見えてきました。そうだったのかって。あとは悔い改めて感謝して祈ります。すると平安がきました。同じ失敗を繰り返さなくてすみます。失敗に引きずられなくてすみます。恐れから萎縮しなくてすみます。神様、賛美と感謝を教えてくださってありがとう。これがあるから歩いていけます。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された
人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくだ
さることを、私たちは知っています。
ローマ8:28
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された
人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくだ
さることを、私たちは知っています。
ローマ8:28
2009年5月29日金曜日
コンスタンチノ(5)
長崎で殉教した26聖人の中に尾張(愛知県)出身者がいます。最年少ルドビゴ茨木とその父パウロ茨木、レオン烏丸(姓は茨木、パウロ茨木の弟)はこの美和町花正地方の出身と考えられるそうです。とすると、コンスタンチノとなんらかの関連もあったようにおもわれます。この地域のキリシタン関係の資料が見つかってないそうなので断定はできないのですが。主のときに発掘されることでしょう。殉教はリバイバルの種。ここにも主の栄光が現されることを願い、祈っています。
(『美和町史 人物 一 』)
(『二十六聖人と長崎物語』 結城了悟著)より
(『美和町史 人物 一 』)
(『二十六聖人と長崎物語』 結城了悟著)より
2009年5月28日木曜日
恵み
先週の土曜日、夕飯の準備をしている時うっかりしてゆでこぼしの熱湯を左手の甲にかけてしまいました。あっと言う間の出来事でした。赤くなり、ジンジン、ヒリヒリしてきたので水道水で時々冷やしながら、感謝をし、いやしの祈りを何回かして、ばたばたとあわただしく準備を続けました。夕飯が終わる頃には大分痛みが収まってきました。皆が食事を終えて片付ける頃、ふと左手をみると赤くないのです。ヒリヒリとした痛みもとれてました。神様が完全にいやしてくださいました。ハレルヤ!すばらしい神様、感謝します。
キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
Ⅰペテロ2:24
キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
Ⅰペテロ2:24
2009年5月22日金曜日
コンスタンチノ(4)
2009年5月16日土曜日
あふれでる恵み
以前働いていた職場は、夏は40度を超えることが多く本当に暑い夏でした。午後が最高頂。頭もクラクラ。せめて扇風機を、冷風機を、皆がかわるがわる訴えても、誰も本気で聞いてくれませんでした。“サウナみたいでいいんじゃないの”と課長の一言。以前から働いている人たちはこんなものだとあきらめているようでした。ある日ある時、ふと思いました。この暑さを感謝してなかった。“神様、この暑さを感謝します。”心からの一言でした。するとどうでしょう。5分もしないうちに、〇〇次長が来て温度計を見ていきました。△△部長も温度計を見にきました。入れ替わり立ち代り事務所から様子を見にやってくるのです。極めつけは、アイスの差し入れでした。しかも仕事中に。この暑さは今に始まったことじゃないのに。御名をあがめます。神様です。先日同僚にばったり町で会ったとき、今年の夏はすずしくなったと言ってました。私はこのためにこの職場に送られたのでしょうか。残念ながら、わたしはその恵みを味わうことなく仕事をやめましたが。神様は私の周りにも恵みを注ぎ、あふれさせてくださる方。ハレルヤ!
2009年5月14日木曜日
コンスタンチノ(3)
美和町の花正で自宅を教会として、非難、中傷、迫害の中伝道を続けキリシタン村といわれるまでになり、毎年京都の宣教師のいるところに村人たちを連れて行ってたという。1578年には初めて宣教師オルガンチィーノ神父が、1587年には宣教師パシオが花正を訪問。コンスタンチノも宣教師にかわって、尾張、美濃へと派遣されその働きは、清洲、一宮、美濃へと広がっていった。1591年頃亡くなったようだ。1597年の2月5日、日本26聖人の殉教が長崎でおきている。この中に尾張出身の人が5人いると言う。この時代、これほどの情熱を持っての伝道、死をも恐れない強い信仰は、どこからきたのだろうか。どのようにして持てたのだろうか。
( 『美和町史 人物 一』より )
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、
地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたが
たは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の
御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなた方に命じておいた
すべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わ
りまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
マタイ28:18~20
( 『美和町史 人物 一』より )
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、
地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたが
たは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の
御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなた方に命じておいた
すべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わ
りまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
マタイ28:18~20
2009年5月13日水曜日
一粒の麦
美和町周辺にも殉教地があります。四百数十年前、日本にこのようなクリスチャンがいて、殉教者がこんなにもいたとは知りませんでした。若い頃、キリスト教は外国の宗教、日本人は仏教と思い込んでいましたから驚きです。最初の殉教は1597年2月5日、日本26聖人が長崎の西坂で殉教しました。いずれこの地の歴史も明らかにされていくことでしょう。何一つ無駄にはならず、やがて豊かな実が結ばれる日が必ず来ますから。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に
落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、
豊かな実を結びます。
ヨハネ12:24
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に
落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、
豊かな実を結びます。
ヨハネ12:24
2009年5月9日土曜日
2009年5月7日木曜日
コンスタンチノ(2)
織田信長が活躍していた安土桃山時代、来日した宣教師ルイス・フロイスが記録した『日本史』は、フランシスコ・ザビエルの来日から26聖人の殉教後フロイスの死去(1597年7月)までの日本キリスト布教史を記録している。その中に日本名不詳のコンスタンチノという名がでてくる。奈良の大和・沢城の城主、高山飛騨守(高山右近の父)の下で(1564)洗礼を受けた。城内の教会の守番をしていく中で、その教えを学んだ。沢城が敵に奪われ、1567年頃、コンスタンチノは故郷花正に戻り自宅に祈祷所を設け、伝道を始めた。1580年頃には信者が600人に増え、キリシタン村として有名であったらしい。フロイスは彼のことを花正地域の「全キリシタンの父であり育ての親とも称されるべき古参のコンスタンチノ」と言っている。日本で最初の殉教者ー26聖人ーの中に尾張出身の人がいる。興味は尽きない。
『美和町史 人物 一 』より
※ 年代に間違いを見つけましたので
訂正させていただきました
大変失礼いたしました
『美和町史 人物 一 』より
※ 年代に間違いを見つけましたので
訂正させていただきました
大変失礼いたしました
2009年5月2日土曜日
恵み
父の部屋の暖房を、危なくないようにと床暖房にしました。が、父は床暖房よりもハロゲンストーブのほうを好んで使ってました。ある日、床暖房のコントロールパネルの表示がおかしいのです。ベッドを置いたので、その部分が重みで断線したようでした。すぐに修理をお願いしたのですが、なかなか来てもらえませんでした。スイッチが入った状態になってるようでしたので、漏電して火事になったらーと思うと怖くて。何度も何度もこのことを感謝して、パネルに手を置いて祈りました。でも次第に忘れていきました。1ヶ月ぐらい経った頃突然"なおっとる”という家人の驚きの声がするのです。何時修理に来てくれたの。誰が直してくれたの?いいえ、だれも修理には来てくれませんでした。見るとパネルが正常に表示されて、切り替えもできるようになってました。ただただ必死で感謝しただけです。神様が直してくださったとしか考えられません。神様ありがとうございます。
2009年4月28日火曜日
2009年4月25日土曜日
コンスタンチノ(1)
美和町が七宝町、甚目寺町の3町と合併し、新しい名前の市に生まれ変わるようです。と、なるとこの"美和”という地名がなくなるっていうことですね。ちょっと複雑な心境です。ここは、のどかで住みやすい所です。梅雨時は蛙の合唱でにぎやかです。戦国武将・蜂須賀子六、福島正則、の出身地でもあり"正則”という名の小学校があります。それと、尾張キリシタン第1号のコンスタンチノ(日本名不明の農夫)という人がいたそうです。"花正"出身で、当時この地域はクリスチャン村で、家の教会があったようです。驚きです。この平和そうな村が、かつての迫害、殉教を通ってきたとは。歴史を掘り起こしてみたい気がしてきました。(美和町HP、『美和町史 人物一』より)
2009年4月24日金曜日
いなべにもおじゃまします
ゴスペルコンサートが、明日25日(土)ヨシズヤいなべ店で12時からあります。雨にも負けず、風にも負けず歌います。渋滞、を避けたい方ぜひ来て聞いてください。ホッとなひとときをどうぞ。
2009年4月22日水曜日
また行ってもいいですか?
津島市の天王川公園に、ゴスペルチーム"シオン”のメンバーで 行ってきました。昨日の雨風はすっかり止んでさわやかな一日でした。嫌だ、恥ずかしい、隠れたい、しまった、帽子をかぶって顔をかくせばよかったなどという思いはどこかに飛んで、大きな声で、7曲も歌ってしまいました。藤の花が見頃で人出もかなり・・・お花見に来た人たちの心に私たちの歌がとどいたでしょうか。
2009年4月21日火曜日
"かめの粉は尽きず”
つまり、お米は無くならないってことでした。無くなりかけると頂いたり、お米を買うお金ができたり、家計をうまく切り詰めることができたりと。十数年前、いろいろとあって、とても生活が苦しくて、精神的にも追い詰められぎりぎりのところにいました。とにかく、まず食べることにこまらないようにと必死で祈り続けました。そうしたらある時、聖書のこの御言葉が心に響いてきました。飢饉があっても、何があっても、お米だけは大丈夫!と信じることができました。そうして、今日まで守られています。神様は真実なお方です。
2009年4月19日日曜日
2009年4月18日土曜日
2009年4月17日金曜日
ゴスペルもいかがですか
ゴスペルコンサートを、明日4月18日(土)12時から、立田大橋東、立田道の駅"ふれあいの里”でします。木曽三川公園のチュウリップ祭りの行き帰りに、ぜひ寄ってください。野菜がとても安いです。レンコンチップ、レンコンソフト、草もちも・お・い・し・い・です。
登録:
投稿 (Atom)