2009年12月30日水曜日

衣替えしました


 初春に向けて衣替えをしました。師も走り回るあわただしいこの時期。本当はじっくり籠って祈りたいのですが、恒例のおせち造りが待ってます。普段できないことをこの数日でやろうというところに無理がある・・
と思いつつ毎年同じことを繰り返すなかで、普通に過ごせる幸せもかみしめています。あの時、イエス様に出会ってなかったら・・・と思うとゾッとします。

   だれでもキリストのうちにあるなら、
   その人は新しく造られた者です。
   古いものは過ぎ去って、見よ、
   すべてが新しくなりました。
                    Ⅱコリント5:17
                       

2009年12月19日土曜日

初雪


 昨夜から今朝にかけて今年初めての雪が積もりました。雪のおもみで皇帝ダリアが全部下を向いてしまい、まさに雪の帽子です。あわてて車も冬の装備に。なにしろ、突然の雪でした。東北の方では一晩で80センチだとか・・・。先ほど、東海地方に地震のニュースが流れていました。これから、何がおきてもおかしくない時代。備えていなくては。
      だから、目をさましていなさい。
      あなたがたは、自分の主がいつ
      来られるか、知らないからです。
                  マタイ24:42

祈りの答え・・?!


 クリスチャンになったら「春の海 ひねもすのたり のたりかな」で毎日平安に過ごせると思っていましたが、むしろ逆で問題が次から次と湧いてきます。すべてのことを支配している神さまが、すべてのことを感謝しなさいと言っておられるので、感謝をして、そして祈ります。15日もいろいろとお祈りをしてから、用事を済ませて、ふと空を見ると、彩雲が出てました。うれしくなります。神様がいつもそばにいてくださる。祈りを聞いてくださる。悩み、落ち込んでいると、励ましてくださる。
     わたしは近くにいれば、神なのか。
       -主の御告げ。-
     遠くにいれば、神ではないのか。
     人が隠れた所に身を隠したら、
     わたしは彼を見ることができないのか。
       -主の御告げ。-
     天にも地にも、わたしは満ちているではないか。
       ー主の御告げ。-
                         エレミヤ23:23~24

2009年11月30日月曜日

高山右近


 あの時代、多くの人が、支配者階級の武士たちも神を信じた。度重なる禁教令の中、信仰を守り通した高山右近。1614年に国外追放となり、マニラへ。ところが、キリシタンの英雄として最高のVIP待遇で迎えられたそうだ。「神父やキリシタンに囲まれて死ぬのは幸せだ」と言い残して、天国へ。
            『戦国武将ものしり事典』より

  信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。
                         へブル11:6

路上ライブを

 美和町ゴスペルチームとして、初めて路上ライブをしました。駅前を下見に行った時は、ほとんど人がいなくて、ひそかにホッとしたのですが、いざいってみると、かなりの人が行き交ってました。知った人に会うと照れるな・・と思ってましたが、賛美し始めたら、神様、この地を祝福してください。痛み、悩み、苦しんでいる人たちにあなたの愛を・・・と叫んでいました。もっともっとうまくなって神様の愛があふれる賛美ができますようにと祈りつつ、もっともっと、これからでていきます。

ワクワクしてます


 なかなか読みこなせない『武功夜話』を眺めつつ、あれこれとおもいをめぐらしている。農夫コンスタンチノは、どうして奈良の沢城にいたのだろうか?完全に記録を抹消されているので、単なる私の推測にすぎないのだが、本当は福島正則や蜂須賀小六のように武士階級の人物ではなかったのか。ルドビゴ茨木は、この花正の地で皆と同じように子供時代を駆け回ったであろうに・・など。秋の夜長もまた楽し!

   彼は望みえない時に望みを抱いて信じました。
  それは、「あなたの子孫はこのようになる。」
  と言われていたとおりに、彼があらゆる国の
  人々の父となるためでした。
                     ローマ4:18

倒れても・・・


台風18号の影響で根っこから倒れた皇帝ダリアを起こして棒で支えていたら、根付いて多くの花が咲きました。生命力が強い花です。幹が途中で折れても、そこから花芽がでてきますし、折れた枝も、根が出て成長しきれいな花を咲かせます。

  わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
          ヨハネ15:5

2009年11月16日月曜日

孤児院報告会に行って


 10日、11日カンボジア孤児院の報告会がありました。現地スタッフのルツ前田宣教師さんが、元気に遊ぶ子供たちの動画と、その子供たちが書いた絵を持ってきてみせてくださいました。とても明るい色使いをした絵ばかりで傷ついた子供たちが癒され元気に成長し素敵な笑顔で過ごしている姿を見せていただきました。福音の力、神様の愛ってすごいですね。

    私は福音を恥とは思いません。福音は、
   ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、
   信じるすべての人にとって、救いを得さ
   せる神の力です。
                    ローマ1:16

2009年11月2日月曜日

10月31日  パート2


 太陽の周りに、きれいに完全な丸い形の虹をみました。むかしむかし、私は、何も知らないで過ぎるよりはできるだけ何でも知った上で、判断していけばいいと思ってました。でも、クリスチャンになってから、知るべきことを知らず、知らないでいいことを追求して、影響されて違う方向を歩いたり、傷ついてきたことに気づかされて悔い改め、これは、私の祈りになりました。そして、その日・10月31日の午後、初めて太陽の周りに完全な虹をみたのです。本が好きで、それまでいろいろな本を読み漁ってましたが、全然興味をもてなくなっていました。とにかく聖書が読みたくて、神様のことが知りたくて、知りたくて、聖書に没頭していきました。

   なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、
  すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らない
  ことに決心したからです。
                      Ⅱコリント2:2

2009年11月1日日曜日

10月31日


 実家から父の法事をするから帰ってくるようにと連絡がきました。久しぶりに兄姉の顔を見たいと思いましたが帰るのをやめました。日曜日は礼拝の日。皆が救われるように祈ってきました。父も母も天国です。天で全員そろうことを信じ、神様に期待します。父は浄土真宗大谷派の第15代住職でした。大好きな父でした。その父が病気になって、体が思うように動かなくなった時、死にたいと言ったのです。私にはショックでした。あれほど一生懸命に寺のため、人のため、家族のために働いて、人は救えても自分は救われないのか、今まで父のやってきたことは何だったのだろうかと思うようになりました。それとともに私も苦しさの中でもがいている時クリスチャンと出会い、教会に導かれました。聖書の神様、イエス・キリストと出会い私は救われました。心が虚しさを感じた時、経本を読んだり、仏教説話集を読んで心を満たそうとしていましたが、満たされることはありませんでした。今は、祈ったり、聖書を読んだり、賛美をしたり、教会に行ったりすることで喜びがきます。心が満たされます。嫌な問題から逃げずにすみます。父が苦しまなかったら、私は仏教から目が、心が離れなかったでしょう。神様は哀れみ深いお方です。17年前の10月31日、父を天国に導いてくださいました。

     主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、
     主よ、だれが御前に立ちえましょう。
     しかし、あなたが赦してくださるからこそ 
     あなたは人に恐れられます。
                      詩篇130:3,4

2009年10月30日金曜日

この年の暮れに


私たちの群れは11月が新年となります。ですから、いまは1年の締めくくりの時、年の暮れ・・・感謝と悔い改めのときです。が、なんと忘れやすいものか。情けない。ひとつひとつ思い起こしながら、感謝しています。悔い改めるほうが多いいのですが。先週、突然困難が降りかかってきました。試練のときこそ感謝します。そして喜びます。この試練をとおして恵みと祝福を見ることができるからです。感謝して、外に出て、ふと空を見ると彩雲がでてました。神様がいてくださる。希望がわいてきます。聖書を読み始めたころ、神様って非常識なお方だなーと強く思ったことがありましたが。まさしく、私たちの思いをはるかに超えて祝福と恵みを注いでくださる方。神様、感謝します。

      神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って
     召された人々のためには、神がすべてのことを働か
     せて益としてくださることを、私たちは知っています。
                          ローマ8:28

2009年10月28日水曜日

すべてが益となって・・・


 興味深い本を見つけました。「武功夜話」-戦国時代・織田信長、豊臣秀吉が活躍した時代を中心とした前野家の覚え書で、第16代孫四郎かつかねによって編集されたもの。かねかつは吉田と苗字をかえ百姓となり、庄屋職として現代に至っているそうだ。この前野家は江戸時代初期まで切支丹宗門であり、編纂を手伝ったかつかねの娘千代女は切支丹として殉教している。この書は門外不出として土蔵奥深くにしまいこまれていたのが、50年前の伊勢湾台風の時、土蔵の壁が崩れたためみつかったという。当時のことが詳細に記録され、遠藤周作氏はこれをもとに何冊かの時代物を書いているという。神の前にひとつひとつが覚えられていて、ちょうど良い時にあきらかにしてくださる。

     神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、
    人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行われる
    みわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
                             伝道者の書3:11

実りの秋


 春に植えたサツマイモの苗が4本残り立派な芋が育ちました。30本植えた苗のほとんどが枯れてしまって、今年はあまり収穫を期待していませんでしたが、掘ってみると、なんと、1本のツルが隣の畝まで伸びて根を張り、そこにも芋が育ってました。1本の苗から2本、3本分の芋を収穫することができました。感謝です。こんなこと初めてです。神様は愉快な、ユーモアのある方なのですね。


     わたしはぶどうの木で、あなたがたは
    枝です。人がわたしにとどまり、わたしも
    その人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。
    わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
                                    ヨハネ15:5

2009年10月22日木曜日

J-ゴスペルもよろしく


 動画バーを取り入れてみました。ゴスペルの世界を堪能して下さい。私たちは日本発のゴスペルを世界に届けようとしています。いろいろなグループが活躍しています。新しい曲も驚くほどたくさん生まれてます。いづれ、この動画バーに登場する日が来ることを祈りつつ、待ち望みます


          新しい歌を主に歌え。
          全地よ。主に歌え。
          主に歌え。
          御名をほめたたえよ。
          日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。
                           詩篇96:1,2

2009年10月12日月曜日

台風一過


 伊勢湾台風から50年、同じようなコースで非常に強い台風18号が通り過ぎました。最悪を想定してましたが、ここは台風の西側よりだったので雨、風から守られました。本当に感謝でした。どんなに準備をしても、私達は無力です、あとは神様に祈りました。そして、早めに寝ました。以前だったら、心配で夜一睡もできなかったでしょうが。今は神様に祈り、神様に信頼することができますから大丈夫です。皇帝ダリヤが1本倒れてました。

2009年10月7日水曜日

主の恵みはとこしえまで


 白洲次郎というTV番組を見ました。このような人がいたのですね。知りませんでした。ドラマを見ていると、なぜか、シンドラーをふと思い出しました。俳優さんのイメージが似ていたからでしょうか?そのなかで、「Jesus lovos me」(主われを愛す)の賛美歌がバックミュージックとして流れてました。祖父とお母さんがクリスチャンだったそうです。祈られて育ったのですね。「貴方は病弱でいつ死んでもおかしくない時がよくあったのです。その時私はどれほど神様に祈ったことでしょう。貴方が奇跡的に生きながらえたのは、神様があなたにしかできない使命をお与えになったのです。」というお母さんの言葉のとおり、日本の敗戦時にGHQと真正面から戦って、アメリカの隷属国にならずにすみました。日本は神様に愛されているのですね。

      わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、
      あなたの知らない、理解を超えた大いなる事を
      あなたに告げよう。
                        エレミヤ33:3

2009年9月28日月曜日

祝福!


いなべ礼拝に行ってきました。残念ながら、行く途中の光臨は見ることができませんでした。が、礼拝中、彩雲がでました。感謝でした。久しぶりです。天のしるしを見せていただくと、神様が共にいてくださる、私の祈りに答えてくださることを実感でき、とてもうれしくなり、“虹が”“彩雲が”・・・と大騒ぎしてしまいます。

    天は神の栄光を語り告げ、
    大空は御手のわざを告げ知らせる。
    昼は昼へ、話を伝え、
    夜は夜へ、知識を示す。
    話もなく、ことばもなく、
    その声も聞かれない。
                詩篇19:1~3

2009年9月20日日曜日

コンサート会場


 セプテンバーコンサートが12日(土)に名古屋市中村区の地球広場のカフェ・クロスロードでありました。四日市シオン教会のチームと名古屋教会のチームが参加しました。会場の場所をインターネットで調べていて、驚きです。あのホテルグリーンプラザ・白馬が、毎年、夏冬のキャンプを行っている素敵なホテルが、このコンサート会場になってました。日本中いや世界中にJ-ゴスペルを届けることができますように。

       全地よ。主に喜び叫べ。
       大声で叫び、喜び歌い、ほめ歌を歌え。
                             詩篇98:4

2009年9月4日金曜日

まだいるのです。


 1938年3月、ナチスの手から逃れ、シベリア鉄道・オルポール駅で足止めされている五千人から二万人のユダヤ人を助けた人達もいたそうだ。当時の樋口陸軍中将は、人種差別を嫌い、食べ物、着る物、そして出国の手助けをしたという。また、安江陸軍大佐は、ユダヤ研究を命じられてパレスチナ、エジプトへ出かけ、現状を実際に見て、文章の真偽を判断したという。この二人は戦後、イスラエル建国功労者として名前が「黄金の碑」に刻印されているという。日本とイスラエルの架け橋となった人々の足跡を、私も行って、実際にこの眼で見てみたい。

2009年8月31日月曜日

夏休みのおわりに・・・



 今日で夏休みも終わり。夏を惜しんで、今シーズン最後のスイカ。今日の美和町の祈祷会、神学校をおえて、スーパーを覗くと安く売ってたので、思わず買ってしまいました。
 昨日は、我が家の天井にお客様が。夏の饗宴。
 明日から心新たに、しばし夏を楽しもう!
           この日は、主が造られた。
           われらはこの日を楽しもう。

日本もなかなか・・・


 名古屋市美術館でー<流ぼうユダヤ>・・・という写真展(2005年)を見た時は驚きでした。次の渡航ビザが下りるまで神戸に一時滞在し、長い時は9ヶ月の滞在延期もあったという。隠れた歴史・・・私がクリスチャンにならなければ決して知ることもなかったと思われること・・・日本のいろいろな顔が見えてききます。

       幸いなことよ。弱っている人に心を配る人は。
       主はわざわいの日にその人を助け出される。
                             詩篇41:1

ここにも助けが・・・


 朝日新聞2002年6月7日・夕刊に興味ある記事を見つけたので紹介します。「外交官杉原千畝氏が発給した『命のビザ』を支えたもう一つの歴史」として、「日本を経由して米国に逃げるユダヤ難民は、1938(昭和13)年ごろから増え、41年ごろまで続いた。外国人客の誘致、あっせんを目的とした社団法人『ジャパン・ツーリスト・ビューロー』(現JTB)が手配した難民は、少なくとも1万1千人に上るという。」シベリア鉄道を経由してウラジオストックから敦賀港へ、また旧満州の満州里を通り、大連から上海へ。米国のユダヤ人協会から資金を預り、この働きを進めたそうだ。このことは、「観光文化」(旅行会社機関紙)“20世紀の旅人”という企画の中で明らかにされたという。

2009年8月29日土曜日

日本のシンドラー(2)



 千畝氏は、その後領事官としてヨーロッパ各地を歴任。終戦後ソ連で1年間収容所生活を送り、1947年帰国、外務省を依願退職。-やめさせられたとの説もあるが、政府の公式見解は、「ビザ発給の件での処分退職の記録は存在しない」そうだ。1968年夏、ビザ発給をうけた元ユダヤ人難民との再会。1969年イスラエル宗教大臣より勲章をうける。1985年1月18日「ヤド・バシェル賞」(諸国民の中の正義の人の意)をうけ、11月にはエルサレムの丘での記念植樹祭と顕彰碑の除幕式が執り行われ、1986年7月31日死去された。「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれないが、人間としては当然のこと。私は彼らを見殺しにすることはできなかった。」「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く。」の言葉が紹介されている。

                人に従うより、神に従うべきです。
                              使途の働き5:29

2009年8月28日金曜日

日本のシンドラー(1)


 杉原千畝元リトアニア領事代理は、1940年8月、迫害から逃れるユダヤ人に対して自分の判断で日本通過ビザを発給し約6000人のユダヤ人を救った外交官として知られている。1900年1月1日岐阜県加茂郡八百津町で生まれ、父親の仕事の関係で旧制名古屋第5中学校(現瑞陵高校)を卒業。ロシア語を学び、モスクワ大使館で働くのが希望だったが、ソ連側に入国拒否され、1939年、リトアニア日本領事代理として幸子夫人と赴任。いつのころか、夫人もともにロシア正教会の洗礼を受けている。退官後、ニコライ学院教授として教鞭をとった時期もある。1940年7月、政府に要件を満たしてないものにも緊急のビザ発給の許可を求めたが拒否され、日本領事館の閉鎖通告を受けるが、25日には独断で無制限の日本通過ビザ発給を決行。再三の退去命令を受けながらも、約1ヶ月間ビザを書き続けた。ビザに貼る印紙が無くなると領事特別許可書を発行。列車でベルリンへ発車寸前まで続いたと言う。この様子はビデオ『ビザと美徳』に描かれている。
                              参考 ウィキペディア
                                 『ビザと美徳』
                                 HP「人道の港敦賀ムゼウム」等
               昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に
                                 申命記33:27

2009年8月17日月曜日

“つばめ”が・・・20匹ほど


 ふと、隣の空き地をみると、つばめが20匹ほど低空飛行しているのに気がつきました。野菜クズ捨て場になぜ・・・と。思い出しました。祈りと感謝の答えです。梅雨時になると毎年むしが発生するのです。思い出しては祈り、感謝もしてましたが。その虫がつばめのえさになっているのです。驚きです。神様の解決方法には!
       あなた方の思い煩いを、いっさい神に
      ゆだねなさい。神があなたがたのことを
      心配してくださるからです。
                   Ⅰペテロ5:7

2009年8月11日火曜日

神様、助けて!


 台風の時、大雨の時、我が家は古くて、道路より低くなってたので少しでも激しく降ると大変でした。夕立が一時間降り続くと、裏口の履物がプカプカと浮いてました。それから、大雨になりそうなときは必死で祈らずにはいられません。その後、強風で家が飛んでしまうのではと思える時でも守られました。大型の台風が、名古屋上陸直前で、コースを変えたり、二つに分かれて勢力が弱くなったりと。これは偶然ではありません。神様、この恵みを感謝します。
       民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。
       あなたがたの心を神の御前に注ぎだせ。
       神は、われらの避け所である。
                   詩篇62:8

雲の間にある虹・・・それとも彩雲


 今朝、地震で目が覚めました。猫もびっくりしてました。最近頻繁に揺れてます。東海、東南海がやがて来るのでしょうか?備えなければ。切実ですよね。まず、祈ります。神様の助けなくしてどうして生きていけましょうか。大変な中にも神様の守り、慰め、励ましがあります。これから先のことを考えて、不安、恐れ、絶望・・しなくてもいいんです。神様がいるから大丈夫です。ふと、空をみると、なんと、虹が、それとも彩雲。携帯の写真なのでわかりにくいのですが・・・とにかく夢中で撮りました。
            彼に信頼する者は、
           失望させられることがない。
                    ローマ10:11
        

2009年8月9日日曜日

どうしましょう


 ちょっと遅いニュースで恐縮ですが(7月25日発表)、いよいよ三町合併の新しい市名が決まりました。“あま市”だそうです。そうなるとこのブログの名前も変えなければいけないことになるのでしょうか?新生“あま市”誕生にともなって、あま、アマ、天、海部、亜麻・・・???悩み始めてます。神様、どうしましょう。どうすればよろしいでしょうか、教えてください・・・と祈りますから、よろしくお願いします。
             だれでもキリストのうちにあるなら、
            その人は新しく造られた者です。
            古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが
            あたらしくなりました。
                         Ⅱコリント5:17
                  
                                  

2009年8月1日土曜日

キャンプに行ってきました!


 2泊3日の白馬キャンプに行ってきました。なぜか、いつもこの頃になると地震や水害が・・・万難を排して、全国から集まってきます。今年は雨の中、守られました。私が参加した中で“雨”は初めてのような気がします。3日間、恵みのなかにどっぷり浸かってリフレッシュ・心新たに再出発です。救われた頃のことを思い起こしていました。
      あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって
     救われたのです。それは、自分自身から出たこと
     ではなく、神からの賜物です。
      行ないによるのではありません。だれも誇ることの
     ないためです。
                         エペソ2:8,9

2009年7月22日水曜日

音吉(3)

 音吉は、英国籍をとり、ジョン・マシュー・オトソンと名を変え、シンガポールの女性と結婚し3人の子供がいた。1864年、シンガポールにおいて英国への帰化が認められた。記録によると、3年後50歳で亡くなり、シンガポールのキリスト教徒の墓地に葬られたという。音吉の人生に宣教師を介してのキリスト教・神との出会いがあった。最古の和訳聖書に関わったことで埋もれていた歴史から掘り起こされ、三浦綾子さんの『海嶺』の小説がうまれたという。
           神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々の
          ためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、
          私たちは知っています。
                             ローマ8:28

2009年7月19日日曜日

音吉(2)

 音吉たち3人は、米国ワシントン州に漂着し先住民族マカ族に保護された後、英国のハドソン湾会社に引き取られた。ロンドンを経由してマカオで滞在中、宣教師カール・ギュツラフに日本語を教えると共に聖書の和訳に協力した。1849年イギリス海軍の軍艦マリナー号で浦賀へ通訳、林阿多(リン・アトウ、中国人)として来た。1854年にも日英和親条約の締結のため英国艦隊の通訳として長崎にきた。日本最初の英語教師ラナルド・マクドナルドが長崎にやってきたのは音吉たちの影響があったと言う。1862年にはシンガポールで、江戸幕府の外交使節の一員としての福沢諭吉と出会っている。

2009年7月16日木曜日

くちなしの花が咲いてました


 昨日、天王川公園で賛美してきました。梅雨の晴れ間、蒸し暑い一日でしたが、藤棚の下で8曲歌うことができました。ここの藤の花の開花時期には大勢の人がやってきます。昨日は数人が私たちの前を通って行きました。お母さんと一緒の幼児が私たちのほうをじっとみていました。今度は子供賛美を持って出かけます。

2009年7月12日日曜日

音吉(1)


 音吉は、1832年(13歳)に見習い船員として宝順丸に乗り込み江戸に向かう途中遭難した。1年2ヶ月漂流後アメリカ西海岸に漂着した。乗組員14人のうち生き残ったのは、音吉、久吉、岩吉の3人のみであった。マカ族に保護された後イギリスの会社に引き取られ、マカオで日本に帰る機会を待ってる間に、宣教師ギュツラフの聖書和訳に協力した。“モリソン号”で浦賀沖、鹿児島まで来るが異国船打払令により上陸できなかった。『海嶺』のクライマックス・感動のシーンでもある。この後音吉はギュツラフの元で通訳としての訓練を受け、上海、シンガポールで貿易の仕事をしながら漂流民を助けたと言う。
                     『音吉の足跡を追って』 美浜町企画開発課発行
                     「産経新聞」 日本人の足跡 にっぽん音吉①~⑤ 
                     『日本に帰れなかった男たち』

2009年7月6日月曜日


 去年、一畝だけサツマイモを植え、無事収穫できました。今年は畝を増やして30本苗を植えましたが、枯れて残ったのは5本のみ。植えるのが遅すぎたのです。なかなかうまくいきません。神様は自然を通してもいろいろ教えてくださいます。一つ一つに最善の“時”があることを!野菜もそうですが、私たちの人生にもそれぞれに時があることを。
                   天の下では、何事にも定まった時期があり、
                   すべての営みには時がある。
                                   伝道者の書3:1

2009年7月4日土曜日

世界初の和訳聖書


 愛知県は不思議なところです。コンスタンチノもそうですが、『海嶺』(三浦綾子著)の主人公“音吉”も尾張知多郡小野浦村(美浜町)の生まれで、船頭として船に乗って遭難、漂流したのちアメリカに漂着。助けられたのち日本には帰ってこれなかったのですが、聖書の和訳にかかわっているのです。上海、シンガポールで仕事をしながら、遭難にあった人たちを助け支えたそうです。通訳としても活躍しました。二人ともキリスト教に深く関わっているのです。

2009年7月3日金曜日

もしかしたら・・・


 数年前、不思議なことがありました。ある日、ある時突然“わたし、キリスト教って大嫌い”と言い出したのです。小学校5年生位だったと思いますが、驚きました。それで“クリスマスって知ってる?”“キリスト教ってどんなものか知ってる?”と聞くと、全然、何も知らない。おばあちゃんがそう言ってたというのです。キリシタン禁教・弾圧時代のなごりでしょうか。それともまだ地下にひそかに伝わっているのでしょうか。神様お願いです。眠っているクリスチャンを起こしてください。
                主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。
                その恵みはとこしえまで。
                                      詩篇107:1

2009年6月30日火曜日

もっと祈らねば


 浦上のキリシタンのなかに、高木仙右衛門と言う人がいた。この人は誰が見ても一番最初に信仰を捨てるようにみえたという。しかし反対に皆が棄教したときでも、仙右衛門は最後まで守り通したと言う。自分の弱さを知り、毎週断食し祈ったと言う。神様を信頼して、祈っていくとき助けられる。困難を乗り越える力を与えられる。世界的な経済不況、異常気象、戦争不安等の中でまっすぐに生きていけるように、クリスチャンとしての使命が果たせるように、先人の信仰を見習って・・・・・。
                  『まんが日本キリスト教史』上・下巻 まどかまこ著
      これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に
     入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上で
     は旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
                                 へブル11:13

いつか必ず、・・・


 同じような弾圧の中を通りながらも、長崎で信仰が継承されてきたのはなぜだろうかと考えてみる。指導者がすべて捕らえられ、殉教して行くなかで、一村すべてがキリシタンでなければ信仰を守り通すことが難しく、武士を捨てて農民となったキリシタンとともに、「帳方、水方、聞き役」という地下組織力により信仰が守られていったという。また、宣教師の弟子となっていたバスチャンの教会暦と預言「7代経てばコンヘソーロが大きな黒船でやって来て毎週でも告白することができるようになる・・そしてどこででも自由に賛美を歌って歩けるようになる・・・」は励ましと希望となり、預言の成就を信じて語り続けられた。鎖国が解かれ、1858年通商条約が結ばれ、フランス人宣教師が大浦天主堂を建てたことで浦上キリシタンと出会いがあった。
                     『日本キリシタン迫害史』 津山千恵著
                     『まんが日本キリスト教史』上・下巻 まどかまこ著

2009年6月27日土曜日

長崎のキリシタン


 キリシタンの弾圧は1873年2月24日(明治6年)高札が撤去されるまで続いた。尾張では1629年に初めて一人の殉教者がでたが、1670年以降はでてないという。根絶やしにされたのか、それとも隠れキリシタンとなって地下に潜ったのだろうか。長崎・浦上村では浦上四番崩れといわれる一村総流罪がおきた。津和野、金沢など、そして名古屋には375人が送られたと言う。こういったキリスト教弾圧に対して英、米、仏、独の反発から禁教令を掲げた高札が撤去されたと言う。
                           『日本キリシタン迫害史』津山千恵著
                           『美和町史 人物一』
          民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。
          あなたがたの心を神の御前に注ぎだせ。
          神は、われらの避け所である。     詩篇62:8

2009年6月25日木曜日

祝福がありますように!


 先日、犬山市の老人介護施設でゴスペルコンサートをしました。とても暖かく迎えていただきました。この地はかつてキリシタン伝道所があり、また多くの殉教者が出たところでもあります。犬山城の殿様がキリシタンで、初期の頃は保護されたためキリシタンが増えたそうです。取締りが厳しくなってから、一村で200人もの人たちが殉教し、村がなくなったところもあったそうです。奇しくも道を間違えたためその近くを通りました。命がけで伝道し、命がけで神様を愛したのですね。
          けれども、私たちの国籍は天にあります。
                               ピリピ3:20

2009年6月23日火曜日

もっと信じなければ


 梅雨に入る直前に玉葱の収穫をしました。遅く植えたので取り入れも遅くなりました。空き地を少しずつ耕やして、現在3列になりました。去年はじめて、スイカを植えました。(一度つくってみたかった)でも、草取りがたいへんで間に合わず、草に埋もれてしまい、もうだめーと、思っていたらなんと、こつぶ(?)が3個なってました。もう少し早めに気づいていたらおいしく食べることができたようでした。スイカの様子を見もしないであきらめてしまってました。神様ごめんなさい。せっかく楽しませようとして下さったのに、無駄にしてしまいました。ささやかな労苦も無駄になってしまいました。
        信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、
       神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、
       信じなければならないのです。
                        へブル11:6

2009年6月17日水曜日

もしも・・・

 江戸時代、五人組連座制、絵踏み、寺請制度、などによりキリシタンを弾圧し、一説によると、殉教者は20万人~30万人とも言われているそうだ。まだ明らかにされてないものも含めると、さらに数は増えると思われるが。しかし、これほどの出来事が私たちは知らされてなかったのではないだろうか。ローマのコロッセオには十字架が建っているという。もしも、殉教地に、殉教者の数だけ十字架が建っていたとしたら、私たちの意識は随分と違っていたのではないだろうか。
           『日本キリシタン迫害史』  津山千恵著
           『美和町史 人物 一 』

2009年6月13日土曜日

コンスタンチノ(7)  


 当時、「~日本人イルマンは零名以外の名を用いてはならない。~」というイエズス会の規定があったようで、コンスタンチノは牧者、伝道師として働いていたようなので、日本名は残されてないのだろうか。教会堂の守番として、十戒とキリシタンの教え、祈り等を教えることができたと言うが、本当に農夫だったのだろうか。やがて天で明らかに!それにしても、この地方ー愛知県は不思議だ。キリシタンを擁護した信長(勝幡生まれ)、迫害した秀吉、家康(三河)、加藤清正、そして寺沢半三郎もともに愛知県からでている。
             けれども、私たちの国籍は天にあります。
                                 ピリピ3:20

2009年6月11日木曜日

コンスタンチノ(6)


 尾張(美和町)花正地区で蒔かれた福音の種は、清洲(現清須市)、一宮、犬山、江南、美濃(岐阜)へと広がり、根を張っていった。最初、尾張藩はキリシタンの取り締まりは消極的であって、緩やかであったそうで、そのためキリシタンは増えていき九州についで多かったと言う。が、取り締まりも次第にきびしくなり、何千人という殉教者がでた。宗門改めが年2回実施されたのは天草と尾張だけだそうだ。
       『青山玄教授退任記念 キリシタン論文集 歴史・文化・言葉』より
       『美和町史 人物 一』より

2009年6月6日土曜日

叫び!

 ふと、思い出したことがあります。主と出会った頃のことです。私の前に大きな問題が起きた時、苦しくて苦しくて呻いてました。自分を責めても、人を責めても、我慢をしても何の解決もなく、毎日暗闇がどんどん深くなって絶望の日が続いてました。そんなある日、“神様、助けて”と心から叫んでいました。しばらくしてクリスチャンに教会に誘われ、イエス様を知り、救われました。状況は何も変わらず。でもなぜか、うれしいのです。心に喜びがあふれてくるのです。そうして、周りの人達を教会に誘ってました。神様は私の叫びを聞いて助けてくださったのですね。
           「主の御名を呼び求めるものは、だれでも救われる。」のです。
                                     ローマ10:13
                                      

2009年6月2日火曜日

私の助けは、天地を造られた主から来る。

 嫌なことや失敗が続くと、自分を責め、すっかり落ち込んでしまいます。悪いことばかりに目がいってしまいます。不安と恐れが代わる代わる襲ってきます。なぜ、どうしてと空回りばかり。“誰か助けて”ーすると神様は“私を感謝しましたか”といわれます。そうです感謝と賛美です。神様をほめたたえます。そして失敗を感謝します。できない自分を、失敗した自分をそのまま感謝し続けていると、失敗の原因が見えてきました。そうだったのかって。あとは悔い改めて感謝して祈ります。すると平安がきました。同じ失敗を繰り返さなくてすみます。失敗に引きずられなくてすみます。恐れから萎縮しなくてすみます。神様、賛美と感謝を教えてくださってありがとう。これがあるから歩いていけます。
            神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された
           人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくだ
           さることを、私たちは知っています。
                              ローマ8:28

2009年5月29日金曜日

コンスタンチノ(5)

 長崎で殉教した26聖人の中に尾張(愛知県)出身者がいます。最年少ルドビゴ茨木とその父パウロ茨木、レオン烏丸(姓は茨木、パウロ茨木の弟)はこの美和町花正地方の出身と考えられるそうです。とすると、コンスタンチノとなんらかの関連もあったようにおもわれます。この地域のキリシタン関係の資料が見つかってないそうなので断定はできないのですが。主のときに発掘されることでしょう。殉教はリバイバルの種。ここにも主の栄光が現されることを願い、祈っています。
                       (『美和町史 人物 一 』)
                       (『二十六聖人と長崎物語』 結城了悟著)より
 

2009年5月28日木曜日

恵み

 先週の土曜日、夕飯の準備をしている時うっかりしてゆでこぼしの熱湯を左手の甲にかけてしまいました。あっと言う間の出来事でした。赤くなり、ジンジン、ヒリヒリしてきたので水道水で時々冷やしながら、感謝をし、いやしの祈りを何回かして、ばたばたとあわただしく準備を続けました。夕飯が終わる頃には大分痛みが収まってきました。皆が食事を終えて片付ける頃、ふと左手をみると赤くないのです。ヒリヒリとした痛みもとれてました。神様が完全にいやしてくださいました。ハレルヤ!すばらしい神様、感謝します。
       キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
                                       Ⅰペテロ2:24

2009年5月22日金曜日

コンスタンチノ(4)


 当時の尾張キリシタンのほとんどはコンスタンチノが洗礼を授けたようだ。迫害の強い中、しかも宣教の中心・京都から遠く離れ、宣教師の常駐もない中でこれほどの信仰が堅く守られ、働きが広げられていったのには驚きだ。神様の召しにより、コンスタンチノは牧者としての働きをしていたようだ。
                『美和町史 人物 一』より 

2009年5月16日土曜日

あふれでる恵み

 以前働いていた職場は、夏は40度を超えることが多く本当に暑い夏でした。午後が最高頂。頭もクラクラ。せめて扇風機を、冷風機を、皆がかわるがわる訴えても、誰も本気で聞いてくれませんでした。“サウナみたいでいいんじゃないの”と課長の一言。以前から働いている人たちはこんなものだとあきらめているようでした。ある日ある時、ふと思いました。この暑さを感謝してなかった。“神様、この暑さを感謝します。”心からの一言でした。するとどうでしょう。5分もしないうちに、〇〇次長が来て温度計を見ていきました。△△部長も温度計を見にきました。入れ替わり立ち代り事務所から様子を見にやってくるのです。極めつけは、アイスの差し入れでした。しかも仕事中に。この暑さは今に始まったことじゃないのに。御名をあがめます。神様です。先日同僚にばったり町で会ったとき、今年の夏はすずしくなったと言ってました。私はこのためにこの職場に送られたのでしょうか。残念ながら、わたしはその恵みを味わうことなく仕事をやめましたが。神様は私の周りにも恵みを注ぎ、あふれさせてくださる方。ハレルヤ!

2009年5月14日木曜日

コンスタンチノ(3)

 美和町の花正で自宅を教会として、非難、中傷、迫害の中伝道を続けキリシタン村といわれるまでになり、毎年京都の宣教師のいるところに村人たちを連れて行ってたという。1578年には初めて宣教師オルガンチィーノ神父が、1587年には宣教師パシオが花正を訪問。コンスタンチノも宣教師にかわって、尾張、美濃へと派遣されその働きは、清洲、一宮、美濃へと広がっていった。1591年頃亡くなったようだ。1597年の2月5日、日本26聖人の殉教が長崎でおきている。この中に尾張出身の人が5人いると言う。この時代、これほどの情熱を持っての伝道、死をも恐れない強い信仰は、どこからきたのだろうか。どのようにして持てたのだろうか。
                                ( 『美和町史 人物 一』より )

       イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、
      地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたが
      たは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の
      御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなた方に命じておいた
      すべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わ
      りまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 
                               マタイ28:18~20  

2009年5月13日水曜日

一粒の麦

  美和町周辺にも殉教地があります。四百数十年前、日本にこのようなクリスチャンがいて、殉教者がこんなにもいたとは知りませんでした。若い頃、キリスト教は外国の宗教、日本人は仏教と思い込んでいましたから驚きです。最初の殉教は1597年2月5日、日本26聖人が長崎の西坂で殉教しました。いずれこの地の歴史も明らかにされていくことでしょう。何一つ無駄にはならず、やがて豊かな実が結ばれる日が必ず来ますから。

          まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に
          落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、
          豊かな実を結びます。
                                           ヨハネ12:24

         

2009年5月9日土曜日

同じスピリットを!

 美和町のゴスペル賛美チーム"シオン”ができて、まず殉教があったとされている場所(確証がないのですが)で礼拝しました。次の日の美和礼拝で喜びが心の奥底からフツフツとわいてくるのです。不思議でした。礼拝、神学校を終えての帰りには、東西にアーチ型の一部分二重の虹がでました。同じ神様が私たちを導いてくださいます。
      イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。 
                              へブル人への手紙13:8

2009年5月7日木曜日

コンスタンチノ(2)


 織田信長が活躍していた安土桃山時代、来日した宣教師ルイス・フロイスが記録した『日本史』は、フランシスコ・ザビエルの来日から26聖人の殉教後フロイスの死去(1597年7月)までの日本キリスト布教史を記録している。その中に日本名不詳のコンスタンチノという名がでてくる。奈良の大和・沢城の城主、高山飛騨守(高山右近の父)の下で(1564)洗礼を受けた。城内の教会の守番をしていく中で、その教えを学んだ。沢城が敵に奪われ、1567年頃、コンスタンチノは故郷花正に戻り自宅に祈祷所を設け、伝道を始めた。1580年頃には信者が600人に増え、キリシタン村として有名であったらしい。フロイスは彼のことを花正地域の「全キリシタンの父であり育ての親とも称されるべき古参のコンスタンチノ」と言っている。日本で最初の殉教者ー26聖人ーの中に尾張出身の人がいる。興味は尽きない。
                         『美和町史 人物 一 』より
                                                                ※ 年代に間違いを見つけましたので
                        訂正させていただきました
                       大変失礼いたしました
                       

2009年5月2日土曜日

恵み

 父の部屋の暖房を、危なくないようにと床暖房にしました。が、父は床暖房よりもハロゲンストーブのほうを好んで使ってました。ある日、床暖房のコントロールパネルの表示がおかしいのです。ベッドを置いたので、その部分が重みで断線したようでした。すぐに修理をお願いしたのですが、なかなか来てもらえませんでした。スイッチが入った状態になってるようでしたので、漏電して火事になったらーと思うと怖くて。何度も何度もこのことを感謝して、パネルに手を置いて祈りました。でも次第に忘れていきました。1ヶ月ぐらい経った頃突然"なおっとる”という家人の驚きの声がするのです。何時修理に来てくれたの。誰が直してくれたの?いいえ、だれも修理には来てくれませんでした。見るとパネルが正常に表示されて、切り替えもできるようになってました。ただただ必死で感謝しただけです。神様が直してくださったとしか考えられません。神様ありがとうございます。

2009年4月28日火曜日

図書館大好き!

 TLCCC神学校で、聖書の学びをしています。一度は挫折したこの学びを一年間継続することができました。祈りつつ、皆と一緒に学べたから。恵みでした。覚えなければならない事が山ほどあり、勉強の苦手な私にとっては大きな山でした。試験の前には美和町の図書館で学生の雰囲気を味わいながら勉強した(?)甲斐もあり、無事終了です。帰り道には彩雲を見ることができました。神様はこの学びを祝福してくださいました。今年度も新学期が始まりました。一年間継続することができますように。試験前には、またおじゃまします。

2009年4月25日土曜日

コンスタンチノ(1)

 美和町が七宝町、甚目寺町の3町と合併し、新しい名前の市に生まれ変わるようです。と、なるとこの"美和”という地名がなくなるっていうことですね。ちょっと複雑な心境です。ここは、のどかで住みやすい所です。梅雨時は蛙の合唱でにぎやかです。戦国武将・蜂須賀子六、福島正則、の出身地でもあり"正則”という名の小学校があります。それと、尾張キリシタン第1号のコンスタンチノ(日本名不明の農夫)という人がいたそうです。"花正"出身で、当時この地域はクリスチャン村で、家の教会があったようです。驚きです。この平和そうな村が、かつての迫害、殉教を通ってきたとは。歴史を掘り起こしてみたい気がしてきました。(美和町HP、『美和町史 人物一』より)

2009年4月24日金曜日

いなべにもおじゃまします

 ゴスペルコンサートが、明日25日(土)ヨシズヤいなべ店で12時からあります。雨にも負けず、風にも負けず歌います。渋滞、を避けたい方ぜひ来て聞いてください。ホッとなひとときをどうぞ。

2009年4月22日水曜日

また行ってもいいですか?

 津島市の天王川公園に、ゴスペルチーム"シオン”のメンバーで 行ってきました。昨日の雨風はすっかり止んでさわやかな一日でした。嫌だ、恥ずかしい、隠れたい、しまった、帽子をかぶって顔をかくせばよかったなどという思いはどこかに飛んで、大きな声で、7曲も歌ってしまいました。藤の花が見頃で人出もかなり・・・お花見に来た人たちの心に私たちの歌がとどいたでしょうか。

2009年4月21日火曜日

"かめの粉は尽きず”

 つまり、お米は無くならないってことでした。無くなりかけると頂いたり、お米を買うお金ができたり、家計をうまく切り詰めることができたりと。十数年前、いろいろとあって、とても生活が苦しくて、精神的にも追い詰められぎりぎりのところにいました。とにかく、まず食べることにこまらないようにと必死で祈り続けました。そうしたらある時、聖書のこの御言葉が心に響いてきました。飢饉があっても、何があっても、お米だけは大丈夫!と信じることができました。そうして、今日まで守られています。神様は真実なお方です。

2009年4月19日日曜日

ゴスペル大好き

 歌ってきました。思いっきり、大きな声で。来てくださった方、聞いてくださった方ありがとうございます。しまったと思われた方、今度はぜひ聞いてください。路上、病院、介護施設など、いろんなところに出かけますので、どこかでお会いすることもあると思います。そのときは声をかけてください。

2009年4月18日土曜日

恵み

 実は、このブログを作ってから公開されるまで時間がかかりました。パソコンが不慣れで、苦手な私がアドレスを打ち込んでも、何をどうやってもあるはずのこのブログが見つからなくて、三日間うろうろ、どうすればいいのやら。感謝して、祈って、家の者に聞いてみましたら、どこがおかしいの?と言われる位にすぐに見つけることができました。感謝の恵みです。いつも困った事が起きたとき、起こりそうな時、失敗したとき、感謝します。ーやせ我慢じゃなくーすると、うまくいくのです。物事が、うまく治まるのです。神様、ありがとう。バンザイ。ハレルヤ!

2009年4月17日金曜日

ゴスペルもいかがですか

 ゴスペルコンサートを、明日4月18日(土)12時から、立田大橋東、立田道の駅"ふれあいの里”でします。木曽三川公園のチュウリップ祭りの行き帰りに、ぜひ寄ってください。野菜がとても安いです。レンコンチップ、レンコンソフト、草もちも・お・い・し・い・です。

春を満喫!


 美和町から10分位西に車で走ったところに桜の名所(?)があります。今年は観光バスがきてました。用水に沿って両岸に桜並木が続いてます。とても素敵な散歩道です。散り時も花吹雪を浴びながらのんびりと散歩します。ところで、桜の花とアーモンドの花はとってもよく似ているそうです。まだ写真でしか見たことはないのですが、花が満開のとき、見てみたいです。

2009年4月14日火曜日

はじめまして

この雨で桜もいよいよ散ってしまいますが、今年は、満開の桜をたっぷり楽しむことができました。